飛ぶコタツ

妄想の空をどこまでも…

夏の暮れ幕開いたまま音が消え

この夏、病を得て2週間ほど入院しました。
病室に何冊か本を持って行きました。
そのうちの一冊が『詩と出会う 詩と生きる』(若松英輔)でした。
詩について勉強したかったわけじゃなくて、若松英輔さんの本が読みかったので選んだのでした。
この本は、NHKカルチャーラジオ(文学の世界)のテキストになっています。
その本のなかに“ 俳句という「詩」──正岡子規が求めた言葉 ”という章があり、子規が考える俳句の在り方に偶然触れました。
子規についてはまったく知らないわけではありませんでしたが、俳句がどういうものか、なんて一度も考えたことはありませんでした。
ですが、というか、だからこそ、というか、俳句という「詩」はとても新鮮味がありました。子規が考える「俳句」について、上記の本から引用します。

 

(前略)
かつて俳句は「俳諧」といいました。人々は集って、それぞれの俳句を交わらせて一つの場を作ることに喜びを感じていました。しかし、子規以降の俳句は、その姿を個による求道といってよいものへと変貌させていきます。それは詩情に裏打ちされた言葉によって世界の本質を見極め、そのことによって己れの深みを知る一つの道になっていったのです。
その道程で子規が重要視したのは、「写実」あるいは「写生」という考え方でした。 
(中略)
彼(正岡子規)が強く否(こば)んだのは、人が言葉を、人間の心情を表現するだけの道具にすることだったのではないでしょうか。
彼ら(子規とその一門の人々)にとって言葉は、何ものかによって人間に与えられたこの世──大きな意味における自然──を解き明かす鍵だったのです。人は言葉でもってこの世界の随所にある存在の秘密を解き明かさなくてはならないにも拘わらず、自分の心ばかり掘り下げている。託されたのは「自分」という小さな場所ではなく、「世界」というべき場所ではないのか、というのが子規の実感だったように思います。
(後略)
『詩と出会う 詩と生きる』若松英輔 

 

俳句で重要なことは「写実」だというのです。しかも、自分の心を掘り下げるのは意味がないともいうのです。びっくりでした。
ただ目の前にある風景や物事を写し取ればいい、というのなら、これは簡単。
そう思って、とりあえず詠んでみました。

 

夏の暮れ幕開いたまま音が消え

 

初めて詠んだのがこの句です。
俳句になっているのかいないのか、良いのか悪いのか、まったく分りません。分からないから臆せず発表できます。

もし、お心に留まった句がおありでしたら、コメントいただければ幸いです。感想をいただくことで、たくさんの気付きを得ることができます。
また、いただいたコメントをブログ中で紹介させていただきたい考えています。ご了解くださいますようお願いします。

 

 

① 夏の暮れ幕開いたまま音が消え

 

② 屋根瓦入道雲に突き刺さる

 

③ 秋の波揺れるは海かわたくしか

 

④ ペン先の鋭きを見る野分かな

 

⑤ 星知らず死を知らずただ虫鳴くや

 

⑥ 風の声木々の声聞く虫の宵

 

⑦ 家を捨て国を捨てなお弾く「月光」

 

⑧ 地に落ちて目を覚ましたる曼殊沙華

 

⑨ 秋彼岸誰かいるかいヒグラシ鳴く

 

⑩ 鈴虫の羽の波動や星流る

 

 

 

 

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※ 別ブログ『森の奥へ』に投稿した記事を書き直しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山人(sanjin)👣@飛ぶコタツ