飛ぶコタツ

妄想の空をどこまでも…

やまさま

 僕の実家はYという山村で、H市からバスで2時間くらい揺られて行った所にありました。昔ながらの山を切り拓いてつくった段々畑や、黒や青色の瓦の合間にはまだちらほらと茅葺き屋根の残るそんな小さな村でした。

 僕の家はその村の終点のバス停から、まださらに奥へ入った所にありました。近くの山の中腹に古い祠があり、昔を知る人はそれを「やまさま」と呼んでいました。

 付近の山は、どれも木々が深く、一年中闇に閉ざされていました。奥へ入るほどにさらに山は険しくなり、人の手が入ったという話は聞いたことがありませんでした。

 僕自身も山育ちでしたが、村の奥の山々には滅多に入ったことはありませんでしたし、親たちも、それを固く禁じていました。

 ただ一度だけ祖父がまだ存命だった頃に、山へきのこ狩りに連れて行ってもらったことがあり、その途中で偶然「やまさま」の前に迷い出てしまったことがありました。

 それはあまりにも突然のことでした。祖父と一緒に入ったのは確か、「やまさま」の裏側の山だったはずなのに、道に迷い、来た道を戻ろうとした瞬間に林が開け、放り出されたように「やまさま」の前にやってきてしまったのでした。靄が一帯を深く覆っていました。

 祖父がそうと教えてくれたわけではありませんでしたが、僕にはすぐにそれが「やまさま」だと分かりました。僕が「やまさま」を見たのはそのときたった一度きりでしたが、その厳かな姿は今でもはっきりと思い出すことができます。

 いつ頃建てられたものなのか見当もつきませんでしたが、水車小屋くらいの大きさのその小さな祠は、一面をびっしりと厚い苔に覆われてしまっていて、その素顔をかいま見ることはできません。そのまま森に溶け込んでしまっているように思えました。

 けれどそのとき、じっとその祠を見ていたのは、ほんの数秒もなかったと思います。「やまさま」が目の前に現れるや否や、祖父は僕に大声で「耳をふさげ」と叫んだからです。

 そしてそのあと、僕と祖父とは一目散に「やまさま」から逃げ帰ってきました。祖父に手を引かれ、生い茂った木々の間を縫うようにして走りました。僕の手を握る祖父の手は痛いほど力強くて、僕は泣きながら走りました。

 やっと森を抜けたとき、僕の体にも祖父の体にも、いたるところに木々の枝に突かれた傷がついていました。それから祖父は一言もしゃべらずに、僕を負ぶって家まで連れ帰ってくれました。その晩はひどく胸が高ぶり、いつまでたっても眠れませんでした。

 その祖父はもうとうにいません。

 やがて僕は村を離れました。僕だけじゃなくて、僕の先輩たちも僕の後輩たちも。村からは若い世代がいなくなり、お年寄りばかりになり、両親も年老いました。

 今回何年ぶりかで村に帰り、改めて見る山々はとても大きく感じられました。麓にあった田畑が野に返り、僕の育った家も学校も道も、何もかもが山に溶け込んで見えたからかも知れません。

 僕はH市にある今僕が住んでいる家に両親に引っ越してきてもらって同居することにしました。両親と何度も話し合ってようやく決めました。引っ越しは明日の朝です。ですので、この家で過ごすのも今夜が最後というわけです。
 僕は父と酒を酌み交わしながら昔話にふけりました。この家も住処として働くのは、おそらく今夜限りでしょう。僕も父もほどよく酔いがまわった頃、話はなんとなく「やまさま」のことになりました。

……「やまさま」というのは、あの祠の中に大きな井戸が祀ってあってな。その井戸があまりに深いもんやで、一度その井戸の底に向かって声を出したら、それがいつまでもいつまでも、中でこだまし続けて、決して消えてしまうことがなかったんやそうや。
 いつの頃のことか知らんが、昔、まちから駆け落ちしてきた男女が、連れ戻しにきた親の使いから追われて、ついに逃げ切れずにその井戸に身を投げて心中したことがあったそうでな。そのとき以来、井戸から男と女が互いの名を呼び合う声が聞こえてきて、止むことがなかったんやそうや。
 それを哀れに思った村人がこしらえたのがあの祠、ということや。何かを封じ込めようとしたんや、と言う人もおるがな……

 父はしんみりとした口調で語ってくれました。それで祖父はあのとき「耳をふさげ」と、とっさに叫んだのでしょうか。

 あの日「やまさま」の前に現れたとき、祖父の耳には一体どんな声が聞こえてきたのでしょう。世を恨む災いの声でしょうか。一緒においで、と誘う声でしょうか。

 「やまさま」は遠い遠い森の奥で、靄の底に沈んでいました。僕にはそんな視覚的な記憶だけしか残っていなくて、祖父の声以外に何かが聞こえてきたかどうか覚えてはいません。

 あの深い山々は今もどこかに「やまさま」を隠している。「やまさま」から響いてくる声もそこに潜ませて。

 僕がここを離れても、それは消えたりはしない。どこまでもどこまでも追いかけてきて、いつかきっと「やまさま」が僕を呼ぶときがやってくる。祖父の「耳をふさげ」という声がこだまのように聞こえてきて、僕はそこにもう一度行ってみたくなる。ふと、そんな気がしました。

(了)

 

 

 




 

 

 

 

山人(sanjin)👣@飛ぶコタツ